昭和51年05月01日 月例祭
真の信心ということを言われます。真の信心をさせて頂いて、真のおかげを受けなければなりません。真の信心というのは、神様を御中心に申し上げた信心です。いわゆる神様本意の信心です。よくお商売の人が使う言葉に「私の方の店はお客様本意でございます」とこう言う。「もうこちらは儲かりさえすれば良いというのではない、もうお客様が本意だ」と。ね。信心もやはりそうです。神様本意の信心をしなければ何時までたっても本当なおかげにはなってまいりません。
三代金光様がお知らせ下さっている中に、「氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられますから」と。氏子が神様任せなら神様が氏子任せになると仰せられますから、私共が神様任せになって、「いわゆる神様本意でまいっておりますと、神様の方が氏子本意に動いて下さるようになる」と言うのです。そういうおかげの世界を目指さなければ、何時までたっても本当のおかげに、いわゆる人間の本当の幸福ということにも、またあの世この世を通しておかげの頂けれる道は開けてまいりません。
「信心しておかげを受けてくれ」と仰せられるのは、そういうおかげそういう信心を言うて下さるのであろうと思います。今日は、私の方の二番目の息子であります光昭の子供の日ばれでございました。伊万里の方からも沢山いろいろと準備して頂いて、お出でて頂いた。まぁ期せずしてって言うか、まぁやっぱり期せずして神ながらな事ですけれども、末永先生のところの二番目の息子が、やはり一緒に日ばれで、息子と娘は違うかなんか違うんだそうですね、私の方は娘末永先生のところは息子です。
で丁度同じ日が日ばれになるので、一緒に神様にお礼お届けをさせてもろうて、一緒に玉串を奉らせてもろうて、まぁお礼を申させて頂きました。もう本当にもう男と女というだけで、もう同じ一様ですよね(笑い)まるっきり双子んごたる。片一方は赤々しい着物を着とる、片一方は白々しい、男と女ですから着とるだけであって、まぁ二人の子供を一緒に、今日はお届けをさせて頂いて、神様にお礼を申させて頂いておりましたら、頂きます事がね。
私は今日、今の皆あのう見えて頂いてから後で一献差し上げます時に、竹内先生に話したことでしたけれど。本当に神様のおかげにはおそれいってしまいます。本当に私が日々神様の前でいろいろ、心の心眼に頂いたり、心耳に頂いたり致しますようなことを、まぁ皆んなにも頂いてもろうたり聞かせたらと思いますがね、今朝は私は心耳で頂いた。心の耳に響いてくるんです。それは幼稚園の時に歌います子供の歌ですよね。「結んで開いて」という歌がありましょう。
結んで開いてその手を上にですかね。というあの歌がもうなんとも言えんリズムに乗って、私の心耳に響いて来るんです。本当にそれを頂かせて頂きながら、思わせて頂いたんですけれども、私が二人の子供を、どうぞ二人とも御道の教師の子供でございますから、行く行くは神様に直接御使え頂けれるような、いわゆる神様の手にも足にもなる様な、御用が出来ます様なおかげを頂いて、無事成長のお育てのおかげを頂く様にと言う事を、お願いさせて頂いておりましたら、そういうお知らせを頂きましたからね。
まぁ結んでということは、いわゆる両親が一緒に結ばれてということでしょう。そこから開かれて来る。そしてそこからそれこそ、手を打ったりそれからその手を上にと言えば上にあげたり、言うならば神様の仰せのまにまに、上げたり下げたりさせて頂くという、そういう氏子に神様が取り立てて下さる、また親もまたそれを願わなければならんという御神意ご理解だと思わせてもらいました。
神様が「手を上げろ」と仰りゃ「はい」「足を上げろ」と仰りゃ「はい」「回れ右」と仰れば回れ右にでけれる、素直な心に育たせて頂くようなおかげを、神様が「手を上げろ」と仰るのに足どんこう上げとる。「足を上げろ」っち言うのに手を上げとると、こういうのじゃどうにもいけんのです。それこそ幼稚園の園児がその歌に合わせて、それこそ「結んで開いてその手を上に」と言えば上にこう、そのリズムに乗って上げて行く様に、人間がその様な素直な神様の御心同様に、動く様な氏子にお取立てを頂きたい。
また頂けと願えということであると、まぁ思わせて頂きました。真の信心とはそういう事だと思うです。自分は右と思うけれども、神様が左と仰せて言うて下さるから、そこにです、私共が神様任せ、ここでは神様任せということを親先生任せという風にみんなが申します。「ついて来なされこの提灯に、決して苦労はさせやせん」と神様が言うて下さるのですから、その提灯に着いてさえ行きゃいいのですけれども、その提灯から離れるところに暗い思いをしたり、息ずまったりしなければならん。
決して神様が「苦労はさせん」と仰せられるのですから、神様の言わば光にこちらが誘われていくというおかげ。そこには第一私共の心が素直にならなければいけません。山川さんが多いです。山と言や川。川と言や山という山川さんです。おかげをどうでも頂かせてもらう。しかもそれはあの世この世を通してのおかげ。勿論この世でもこういう有り難い信心。こういう有り難い御教えを頂かせて頂くという事がです。有り難い。
先日昨日、一昨日でしたでしょうか。竹内先生のところのお母さんの三年の式年がございました。私はもう本当に有り難いと思うたんですけれども、先ほど竹内くんが前講で申しておりましたように、「私の方には竹内家は大体、代々長男が育たないと言う様なめぐりの家である。父も言わば助からないところを母の信心で助かり。私もおかげを頂いて御道の教師のお取立てを頂いて」と言う様に申しておりましたように。
頂くことがこの大牟田のムというカタカナにそれに大きな牛という字を頂くんです。大牟田の牟という字になりますよね、牛と言うのはここでいつも御理解頂きます様に、蛇のお知らせは身のめぐり、牛のお知らせは家のめぐりと言われております。そういう家代々の大きなめぐりを持っており、あったからこそまぁ難儀があり、難儀があったからこそおかげで御神縁を頂いて、それこそどこでも助かる事の出来ないところが、尋ね求めして合楽にご縁を頂くようになり、段々とおかげを頂いて参りましたと言う訳です。
私はその時に、あのうあれは西行法師だったでしょうかね、伊勢たいぎょうにお参りした時に詠った詩だと言われます、「何人の居わしますかわしらねども、ただ有り難さに涙こぼれる」と言う詩がありますよね。もうただ何とはなしに涙がこぼれる。しかもどういう涙かというと苦し涙でもなからなければ、腹立ちの涙でもない。ただもうどこから湧いてくるか分からん有り難涙であるということ。
竹内のおばあちゃんの御霊様のお祭する時、その事を頂くんです。そこんところだけを。訳は分からんけれども有り難うして、有り難うしてと言う様な境地を開いて行っておられる。そん時に初めて私は頂いた事ですけれども、最近御霊様に御霊様を拝むということは尊ぶということ、大事にしなければならないということであって、御霊様は頼んでも私どもの為にどう働いて下さるということは出来ないんだと。
それは教祖の御霊さまだって同んなじなんです。ただ天地の親神様へのお取次ぎをして下さるだけであって、直接働きかけをして下さることは出来ない。それは死んだものを舞台に引っ張ってきて、さぁ踊れと言うのと同じようなものだと。御霊様に頼むとか、願うということはもう実に滑稽なことだということであります。また事実そうだと最近いよいよ思わせてもらいます。
けれども先祖ですから、私共の親ですから、私どもの家の根ですから、いよいよ大事にしなければ、家が根が肥えなければ、あの世にも持っていけ、この世にも残しておけれるというお徳。ならあの世に持っていけるというのは、あの世に例えば財産を持って行くようなもんです御霊が。だからあの世では、自由自在の言うならば安心の御霊、喜びの御霊としておかげが受けられるということであって、この世にまで働きかけると言うことは出来んのです。私共も子供達の為に残しておかなければなりません。
あの世のも持って行け、この世にも残しておかなければならない。まぁ死んでからこちらにまた持ってくるということは出来ん。信心の徳というものは、あの世にも持って行け、この世にも残しておけるもの。勿論あの世に持って行くということは、自分自身のために持って行くもの。沢山の財産を持って行けば、あちらで何不自由もない生活が営まれる、御霊の生活が営まれるということであります。その御霊様がです、有り難うて有り難うてという境地を開いてお出でられる。
そすとまた遺族のものが、本当に信心を頂いておる事の有り難さが、言わば有り難うて、有り難うてということになってくる時に、その有り難いと、有り難いというものが交流するんです。私共の喜びは十(とう)であるならば、御霊の十(とう)の喜びと、十重二十重に喜びという喜びの輪が広がってくる。その喜びにおかげが受けられるというのです。御霊の喜びは私共の喜び、それが例えば式年なら式年と言う様な御祭りに一緒になって、本当に訳は分からんけれども、。
ただ有り難さに涙がこぼれると言う様な有り難さというものはです、信心の徳によらなければ頂けんのです。何かもろうたから有り難いのじゃないのです。何が何やら分からんのだけれども心の底から湧き上がって来るその喜び。その喜びと喜びが一つになる、それが輪に輪を言うなら五の喜びが十の喜び、十の喜びが二十の喜びになってくる時に、そこには二十のおかげが受けられるということになるのです。
今朝から私は御祈念中に頂いたのが、「槙信司」と言う事を頂いた。それがあの牧信二というのは、後で聞かせて頂いたら、何かタレントに居るそうですね。けれども私が頂いたのはですね、丁度やっぱりこりゃあのう外人の人が洋服か何かの宣伝しています、牧何とかよね、マキシムか何かいうでしょ、あの人があの口調で槙信司とこう言っているというところを頂いたんです。どうしても訳は意味は分からんけれども、その意味は分からないけれども、槙信司ということを漢字に直すと、真の木と言う事になる。
信司は信心の信を司どるとこう書いとる。「あっ今日はこういう御理解を頂くな」と私は思うた。そしてあの教典を開かせて頂いたら、「真の道に居りながら、真の道を踏まぬこと」という御神誡を頂いた。真の道に居りながら、皆さんは真の道に縁を頂かれた。御道の信心こそ真の道なんだ。その真の道に縁を頂きながら真の道を踏まずに、ただおかげをだけを頂いておるというのではいけない。真の道に入ったんだから、真の道を踏まなければいけない。
その真の道、真の道ということを、誰でもそれこそ沢山の御道の信者が言うけれども、そんなら真の道とは真の信心とは、どういう信心をさせて頂いたなら良いか、ということをつまびらかに聞かせてくれる者がない、教えてくれるものがないというのが、現、金光教の姿である。それを合楽では、他にもあるかも知れんけれども、これは私が確信を持って言えれるということは、「これこそが真の信心だ」と言っておる信心を、皆さんが何十年間言い続けておる信心を、皆さんが頂いて下さるということ。
それはそれもなおさず、真の道を踏んで行くことですから、「必ず真のおかげが開けてくるんだ」というわけ。そのことを今日の御理解に、繰り返しいろいろな角度から解いてございます。真の信心というのは、言うならばいよいよもって、「成り行きを大切にさせて頂く」ということ。先月からの信心をいうとです。私共がいよいよ善人になるということ。全ての事を、どういうことで成り行きの中にはね、自分の都合の良いことばっかり起きて来ない。
様々な事が起きて来るけれども、それを有り難い、有り難いで受けて行く、言わば善人。善人とは全ての事を良い方へ、良い方へと受けて行く人を善人と言うのであって、お礼を申し上げなければならないような事であっても、不平に言う不足に言う、悪い方へ悪い方へと取って行くのを悪人という。この悪人になり下がったが最後、もう一生窮屈な思いをしなければならない。いつも追われておる。いつも監獄の中に入っておる。そのままあの世に行くというなら、もう地獄に行くという他にないのです。
だからお道の信心をさせてもらうなら、どうでも善人を目指さなければならない。神様がご覧になるところの善人です。私共が言う善人とは違う。私共が言う悪人とは違う。神様がご覧になるところの善人とは、ずべ手の事を有り難い有り難い、良い方へ良い方へと取って行く人間を善人というのである。だから成り行きの全てを大事にする、尊ぶということはそのように素晴らしいことなのだということであります。そしてそのことは、まぁ皆さんに繰り返し聞いて頂いておることですから。
今日の御理解の最後に申しておりますようにね、例えば私が槙信司と言う事を頂いて、なら教典に「真の道に居りながら、真の道を踏まぬ事」と仰せられる百何ヶ条の中からそれとこれとが一つになる。これは神の願いである神の思いである神の声であると。はぁ本当にね、不思議と言えば不思議だけれども、いよいよもって神様が人間氏子に「真の道を踏んでくれよ」「槙信司でいってくれよ」、槙とは真心の心、真の心と言う事であろう。信司と言う事は、信ずる心が一切を司どって行くんだというのです。
神様を信じて疑わないその心が、おかげをおかげが呼んでいくのです。そういう世界に出てくれよということなんです。為には私共が本気で善人を目指して行くところの修行をさせてもろうて、「はぁおかげじゃそれはおかげぞ」とこう言うて行けれる信心。「それは困ったね。それはどうするか」というのと大変違ってくるわけです。ことちらは悪い悪人ですから、いつかは捕えまられちから監獄の中に入れられんならんと、言う様な運命しか開けて来ない訳です。
だからもうここにしぼる以外は無い。成り行きを尊ぶ、成り行きを大事にさせて頂く、成り行きを有り難く」頂いて行くと言う事にです、いよいよ本気にならせて貰うと、その事が楽しゅう、有り難うなって来るんだという。私はその事を先程その竹内先生と一緒にお食事の時に、今日その「槙信司」と頂いたのもですね、今言うあの外人の人がマキシムというその、あぁいう口調で頂いたんですがね、それはどういう意味か分からないって私が申しましたら、その竹内先生が「はぁ」っち言うて言われるんです。
実は英語ではね、そのマキシムというのはなんという意味だった極大極めるに大、あのう無限大という意味なんだそうです。それを頂いていよいよもって、例えば私のような無学なような者にでもです。普通のならタレントにおる牧信二では、意味はなさない訳です。そのマキシムであって、槙信司であって始めて、あのう真心の心であり、信ずる心を持って司ると言う事になるのであり、しかもこういう生き方は無限大のおかげにも繋がって行くのだぞ、という意味の深さにまた改めて驚かせて頂きました。
そうして神様が言うならばです、神の知恵を持って私を通して教えて下さるのですから、本当に一人一人に神様が「桜井さんどうぞよろしくお願いします」「大和さんどうぞこの心になって下さいよ」と言うておられる事を、誰もが頂くものじゃない、「私一人がそれを頂くんだ」という頂き方を身につけて、いよいよ真に道に入ったのですから、真の道を踏んで行くおかげを頂いて、いよいよ信ずる力。
言うならば、信ずる力がおかげを司って行くところのおかげを頂かせてもろうて、それこそ、どこから湧いて来るか分からん喜びに、浸らして頂くと言う様なおかげを頂きもんだと思います。お互いどうでも真の道を極めさせてもらう、「そりゃもう真にさえ真心にさえなれば、真にさえなれば、真の信心さえすればおかげ頂く」といいながら一つもおかげ頂かん。それは徹底した真の信心にならんから。いや真の信心とはこうだと教えてくれる者がないから。
ならここで私が真の信心とは、神様があなたに求めたまう修行。言うならあなたの前に起きてくる全ての事柄をです、それを有り難い有り難い、良い方へ良い方へと、頂いて行くという以外にはない。そういう生き方を、神様中心の生き方というのではないでしょうか。そういう生き方をさせて頂くところから、こんどは神様が言うなら私、大坪総一郎任せになっておかげを下さる。私共が神様任せになっておれば、神様が氏子任せになって下さる。私共が神様本意の信心をいよいよ極めて行けば。
神様が氏子本意の言うならば、あいよかけよで立ち行く道が、そこからいよいよ開かれて来る訳になるのです。ただ何か自分の都合の悪い、困った時だけお伺いをする。そして自分の都合の良くかこつならば神様、親先生になるけれども、自分の都合の悪か事は、それを右にする、左にするであっては何時まで経ってもおかげにならん。「ついて来なされこの提灯に」と仰るのですから、そういう光に導かれての信心生活を、いよいよ身に付けて行きたいと思います。
今日の、あの朝の御理解を頂けたらもう一辺皆さんも頂いて下さい。そしてその「槙信司」と「真の道に居りながら真の道を踏まぬこと」と戒めになって下さってある、そこんところを改めて行く。そしていよいよ神様本意の生き方を身にけて行く。そしてあの世にも持って行け、この世にも残しておけるような御神徳を頂く、金光様の御信心はただもう「ここだけを受けてくれよ」という、神様の切なる願いを私どもは聞かせて貰い、分からせて貰うて、神様にお喜び頂けれる信心、神様に喜んで頂けれるおかげを頂きたいもんだと思います。
どうぞ。